説明する側とされる側の態度
「こまきこども未来館」で遊具に付けられたサインを見て、感じたことです。
サインをつけて「見える化」するのは、利用者に親切だなと思いました。
一方で、こんなふうに効果をアピールすることで、市民からのさまざまな意見をけん制しているのかもしれないな、と少し穿った見方もしました。
このような立派な施設を設置するにあたっては、税金を使っている以上、自治体が住民に対して十分な説明責任を果たさなければならない、ということは疑う余地がありません。
説明責任という言葉は至る所で使われていますね。
それだけ「責任」を意識する必要のある社会になったのだと思います。
ただ、この「責任」についての考え方には個人差があり、人それぞれだということを知っておいた方がいいと思っています。
個人間なら「まぁまぁ…固いことを言わずに」で済まされることも、公の人や組織では通用しないということがたくさんあります。
行政や企業など、説明が必要になる対象の人々がさまざまな場合は、多くの人に理解してもらえるように説明しなければなりません。
必要なことであるとはいえ、説明する側がそこにかける労力が膨大であることにも、想像力を働かせたいですね。
説明する側が必要な準備をするのは当然ですが、説明を受ける側も事前に関連する情報を得ておくことや、聞きたいことを整理しておくだけでも、一から十までの説明をしなくても、五から十の説明で済む、というようなことがあります。
「説明が足りない!」という不満を耳にするたびに、説明を聞く側の態度はどうだろうかと考えます。
一方的に説明を求めるという態度ではなく、説明の受け手もできることはしようという思いを持つことが、説明する側への思いやりになるのではないかなと感じています。